*最近書いたエッセイの要点を圧縮してみました。
日本人の精神文化、国民性を生み出した背景の1つに自然的条件があります。母音が多い日本語は左脳と右脳の働きを特別なものにし、これが物の捉え方をパトス的ロゴス(感情のこもった論理)にしたとの研究があります。小さくて鍵のない住居環境が配慮的で、相手の気持ち「察する」生活文化を生み出したとは精神科の医師の意見です。日本文化の特色を恥の文化として、西洋的な罪の文化と対比させたのはアメリカの文化人類学者でした。今回はその精神文化、国民性を生み出した背景の1つ自然条件に関係する意見を紹介します。
自然災害が多く異民族支配を受けずにきた
日本は①太平洋北西の島国である地理学的位置、②太平洋プレート、フィリピン海プレート、北アメリカプレート、ユーラシアプレートの4つがぶつかり合う地球物理学的条件にあります。この地理学的、地球物理学的な位置条件は太古から住む日本人の精神文化の背景をつくりだしました。
1つは、自然環境です。毎年必ず発生する台風、地震が頻発することと津波が多いこと、全国にある多くの火山、これらは世界でも珍しいほど災害の多い国土をつくりました。山岳が多く平地は少なく、川は急流になることも自然条件に入れてもいいでしょう。
この自然災害国土においては、非常時に備えて住民の協力が求められてきました。古くから住民は決定的な対決を避ける関係をつくり、他方では地域に必要な水利、道路などの共同施設をつくり、自然経済に基づく穏やかな社会生活を形づくりました。
大陸を隔てた島国であることにより、少なくとも歴史時代に入ってからは異民族支配を受けたことがありません。これは特筆できる日本の特徴ともいえます。鎌倉時代の蒙古来襲は“神風”なる台風によって防がれました。例外は戦後におけるアメリカによる沖縄支配です。ついでに言うと20世紀前半の朝鮮の植民地支配はこの逆のばあいです。
*沖縄や植民地朝鮮の状態に対する本土人の想像力の不足は、自分で植民地支配を受けたことがない歴史に関係するかもしれません。これは広島・長崎の原爆被害のリアリティと対比して考えられるものです。
民俗学者・宮本常一『日本文化の形成・上』(ちくま学芸文庫、1994)では、後者を次のように話しています。(61-62p)
《結論を先に言っておくと、文化の形成が武力的な征服によって融合というか集合していったということが日本は非常に少ない国ではなかったか、と思うのです。それが日本の文化の特色ではないかと思います。
つまり強い民族がやってきて上へバーッと乗っかり、そしてその下に入りながらこき使われ抑えつけられして我々が身につけた文化ではなかったのではないか。上から抑えつけられて文化を吸収するということが極めて少なくて、自分たちに必要なものを吸収していくというかたちで文化を受け入れていくことに、日本の民族文化の特色があったと思うのです。》
宮本さんの引用は結論だけで、具体的な内容はこの上中下3巻本のあちこちに分散していますが省略します。異民族支配を受けていないことが、日本人の精神文化を、穏やかな、攻撃的でないものにしたというのは確かだろうと思います。
災害の多い国土と、多民族支配を受けなかった国民の中に生まれたのが現在の国民性の背景にあるというのがここでの1結論です。しかしこれらの国民性が、ひきこもりに直結するわけではありません。
そこにはもう一段の要因があります。次にそれを見ていきます。
ひきこもりに進むもう一段の要因と回復の道
さてこれらの精神文化、国民性が不登校やひきこもりに進むもう一段の要因とは、ハラスメントに類する基本的には後天的なストレス要因です。
幼児期・子ども時代においては、私は虐待とその周縁の躾(しつけ)と考えました(『ひきこもり 当事者と家族の出口』子どもの未来社、2006)。児童精神科医の友田明美さんはマルトリートメント(不適切な養育)と言いました(『いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳』、2006)。子どもは脳を変形させて対応していると友田さんは脳の画像診断によって実証しました。友田さんのこの意見を見たとき、原因と結果が証拠として示されたと思いました。その対応による幼児期の症状が愛着障害です。愛着障害はいろいろな様相がありますが省きます。
思春期以降、とくに成人期においてはどのようになるでしょうか。これには虐待(学齢期においての教育虐待を含む)をはじめ、多様なハラスメントが原因になります。多くの人では幼児期以来の同じ場面が続いています。
それに加えて同世代の中でのいじめを受けやすい状態になります。身体への暴力や暴言・差別語、見下し的なからかいなどを受けやすくなります。自己肯定感が低いことが多く、そういう位置におかれやすいからです。
これらのいろいろなハラスメントへの対応として表れるのが、不登校でありひきこもりです。ハラスメント被害の結果でもありますが、子どもはハラスメントに対応をしてきた結果なのです。
しかし表われ方は幼児期よりも大きく広がり、個人差も大きいです。摂食障害、リストカット(自傷行為)、オーバードーズ(大量の服薬)、不眠・睡眠障害、うつ状態などであり、人によっては精神障害につながります。意欲喪失(やる気が出ない)、希死念慮(自殺願望)もあります。人と関われない、仕事に就けない、仕事に就いても違和感を持ちやすく辞めやすい…などです。愛着障害を残したままでこれらがいろいろな形で重なるのです。
私がひきこもり経験者の集まる居場所で出会った人たちは、以上のような身体的、精神的、さらには社会的な状態になった人たちでした。
そこで考えます。親世代の日本人はとつぜんに凶暴性を発揮し始めたのでしょうか? 親世代にあるハラスメントとは何でしょうか。ここを振り返ってみます。
1980年代になって不登校が増えてきました、90年代になってひきこもりが表われました。この人たちは1970年代以降の生まれです。私が出会い、関わり合った人たちはほぼこの世代です。
対する親世代は1940~1960年代生まれです。1945年生まれの私もここに入ります。親世代とは、日本の高度経済成長を支えた人たちです。個人差や地域差や社会階層の違いがありますが、生活状態の苦しさを克服するために、勤労に励み、学び、苦楽をくぐり抜けた人たちといえます。
対する団塊ジュニア世代は高度な経済社会を達成した日本において、平穏で安定した子ども時代を経験し、自分の持つ力を発揮し社会に役立ちたいと考える人たちです。私はときに一段階上の感性を持つ人と思える人たちです。
子どものこの状態は親世代が子どもに望んできたことです。親世代は目標に近づいていたはずなのです。
この世代のおける感覚の違いを私は『ひきこもり 当事者と家族の出口』で、1つの例を示しました。(27-28p)
《あるとき電話で母親から相談が入りました。十代の娘(大学生?)がだらだらした生活をしている。どうすればいいのか、親としてするべきことを教えてもらいたい、という趣旨でした。
「この不況で、学校を卒業してもなかなか仕事につけない。なのにこれといって熱中するものがない。何か一つのことをめざしてやればいいのにそれをしない。休日なんかは遅くまで寝ている。いつもどおりに起きて規則正しい生活をさせたい。学校の勉強もやっているのかどうかも怪しい。放課後や休日になると友達と一緒にすぐにどこかに遊びに行って、ろくに勉強をしているとは思えない。
親として高望みをしているわけではない。本当は教師になってほしいと思ったが、いまは本人に任せている。本人は英語が好きで英会話をやっているので、それを生かせばいいと思っている。でも、それも『とりあえずやっているだけ』とはぐらかされる。おしゃれとお化粧がどうのこうのということに夢中になっている。このまま時間が過ぎていくことは親の躾放棄のように思える……」》
これは1つの例にすぎません。娘さん(子ども側)には、親が知ること、考えることとは別に、多くのことを知っています。子ども側の事情を、理解でき、あるいは予測すれば、両者のギャップは埋まるでしょう。しかしここで親側が強い立場で、子どもを責めると問題が生まれます。ここから生まれるものを「無意識の、善意の、執拗な、広く行われている」躾(しつけ)と私は考えたのです。
幼児期の虐待やマルトリートメント(不適切な養育)を、これだけで説明がつくとは思いませんが、少なくとも子どもが思春期以降の親子関係においては、子どもの自主制をもっと尊重すべきものだと考えたのはここからです。
しかし、私はこうも考えるのです。親は反省すべきであるといっても、多くの親は何を反省すべきことなのかがわかりません。それまでの生活経験でつかんだことを、子どもに伝えようとしているだけと考えているからです。基本的には世代間ギャップにおける精神文化的な違いととらえるのがいいと思えるわけです。親側にも言い分はあるし、それはそれとして尊重されるべきなのです。当然、個人差もありますし、「これはひどい」という例もあります。全体を見ればこれは断罪される対象というのではなくて、時代の流れ、子どもの自主制を尊重する精神文化の流れに沿って意識改革をするものなのです。
不登校にしても、ひきこもりにしても、全国各地に親の会、家族会が生まれています。これは本当に子どもの成長を願う親の切実な動きの広がりというほかはありません。
さらに大事なことがあります。ひきこもりを含めてこれらの状態からどうすれば回復し社会参加の道に進めるのかです。私には基本的な定式はまだ描けないでいます。子どもの愛着障害からの回復の経緯から、その回復の道は見えてくると期待していますが、精神医学的には必ずしも明確ではないと受けとめています。
成人を含む愛着障害の原因、状態、回復を紹介している岡田尊司『愛着障害』(光文社新書、2011)を見ても、回復の道は明確ではなく、むしろ難しさが示されています。ひきこもりへの支援が就労支援に傾いている点は、ひきこもり当事者側からも指摘されています。この指摘は上の背景からみて十分に納得できます。
私が運営してきたひきこもり等の当事者の居場所は、この回復過程の一端になり有効であるとは思いますが、十分に回復の経路が開かれているわけではありません。個人差(向き不向きの差)、偶然に集まっている人たちの関係など整理しづらい要素が絡み合っています。
少なくとも不登校になる子どもたち、ひきこもりになる人たちの“生きづらさ”を感じるところは特別に(心理学的というよりも社会的な問題としても)具体的に見ていく必要があります。
ひきこもりパラドクス