「置かれた環境でできることを誠実に務める」を書いたとき、私が職場を辞めるとき、退職の日まで職場委員を普段通りにしていたことを思い出しました。
1974年3月、10年間働いた大阪市立大学医学部付属病院の外来事務を担当する医事課を退職しました。職場の同僚は30人ぐらいで、その送別会の時に研究社『新英和大辞典』(第4版45刷)を贈られました。以来40年余、箱ケースは壊れましたがこの分厚い1冊をときどき引っ張り出しては参照しています。
外来事務は大所帯であり、職場委員(これは職制上の役割ではなく職員組合の基礎単位)を任され、何かにつけてこういう役回りがくるのは中学生以来の“習性”みたいです。
仕事は特別に好きでも嫌いでもなく、しかし、そこに楽しみを見つけるのが得意であったと思います。遠い記憶を引き寄せてみると…。スモン病が噂になれば担当した内科のカルテでそれを探し、眼科担当のときは保険担当医と目の話(話題材料に事欠かない自分の目)をしてもらい、腰痛と思い整形外科を自ら受診したときは学生に囲まれて「やせ型体型の腰痛の教材」にされ、職員組合の副委員長が外科医で……とそれぞれの場面で本来業務以外の勉強やら発見をさせてもらいました。
仕事の合間などによく本を読んでいて、時には英語の本も交じっていました(英語が普通にわかるのではないのに)。新聞記事をこまめに収集していて、特にアフリカ関係が多かったので奇妙に思われていたはずです。
こういう私の日常から「タケミさんはカシコイのかバカなのかわからないことがあります!」と1年後輩のK・Tくんに喝破されました。退職のときの『新英和大辞典』を開くたびに、同僚たちが私をどのように見ていたのかをこの辞書が示しているように感じるのです。どう見ていたか、判断していたか、あなどれないと自戒するのです。