「科学は論理的であるという理由で、絶大な信頼を勝ちとっている。しかし、科学は、本質的に、答えられる問題を探し出して、それに答えるだけのものである。答えられない問題は、はじめから切り捨てているのである。私たちは、何が切り捨てられているのかということも考えずに、あたかも、科学はすべての問いに答えられるかのような錯覚に陥りがちである」(柳澤桂子『生命の奇跡 DNAから私へ』PHP新書、1997年、174ページ)。
人間にとっての科学の役割はこのあたりになるのでしょう。
例えば野球は科学ではありません。投手の投げるボールの速さ、投げたボールの回転数とそれを打ったときのボールの飛距離などを計測し、何らかの法則性を見つけることはできます。これは科学の方法によって野球を見ることですし、時には練習方法に生かすことができます。しかし、それは野球を科学にすることではありません。
同じことは、演劇や絵画や日常生活などにも見られます。そして医療や教育にも当てはまります。医学には科学が大量に取り入れられていますが、医学自体は科学と同じではありません。
ことに精神医学はそうなのですが、精神医学の全体を科学と信奉する動きが進められてきました。これでは科学の勝ちすぎであり、科学の堕落の始まりかもしれません。
私たちがこの方面で日常的に出会うのは、人の感覚(sense)、感情(feelings)、情緒・情動(emotion)に関することです。これらに関するいろいろなことは経験則で推測することはできます。しかし科学的な法則性とまではいえません。そこに科学性の責任を追及することもありません。
K.ヤスパースは、原因結果の関係とは別にそれを取り巻く了解的な関係を提案し、一つの妥結案を示しました。今日ではこれはかなり広く認められているようです。科学ではないが、反科学の侵食を防ぐ役目があるように思います。
本題に入ります。心理療法などについてです。非常に幅広い分野に及んでいます。整体などの身体療法からカウンセリング、各種のセラピー、ヒーリングなどに及びます。なかには禅、断食、占いなどもありますし、見当がつかない療法もあります。それらは科学とはいえません。少なくとも科学とは同じではありません。
私はこれらを幅広く「メンタル相談」として施設などの情報を集め紹介したいと思います。その場合の基準は科学的であるかどうかではありません。科学はこの部分を計る尺度を持たないからです。そこまで手を伸ばして何らかの判断できるレベルには届いていません。
では基準がないのかというとそうではありません。
①、反科学または反科学の推奨になっている場合、
②、心身への打撃または人間尊重の欠如を疑う場合
③、公序良俗に反する場合、
④、虚為または紛らわしい情報、過大な表現になる場合、
これらに該当するときは紹介の対象にはできないと考えます。
これを判断基準にします。
これは2007年1月の「カウンセリング、セラピー、ヒーリングの施設データ集め」で示した基準をもう少し明瞭にしたものです。