昨日いただいた手紙も文通ボランティアを希望する方からのものでした。文通ボランティア希望の方には、ご本人が引きこもりなどの何らかの当事者体験をしている方は少なくはありません。その文通ボランティアの希望者は10名を超えました。
困った事態と思うのは、自らがボランティア活動として困った人を助けようとしても、そのボランティアの助けを受けたいという人が現われないことです。相手がいないので試合が成り立たないようなものです。
事態を考え直さなくてはなりません。これは「困った事態」などではなく、健全な事態ではないかと。なぜでしょうか?
初めから支援を求める支援対象者がいるのでしょうか。確かにいますが少数です。他の分野はわかりませんが、引きこもりに関しては特徴的なことがあります。
多くの引きこもり状態の人は、支援を拒否します。成人の場合はほとんどがそうなります。少年期の人や精神障害の領域に入っている引きこもりの人にはいるように思います。それでも当事者から支援を求めるものは合計しても少数です。
家族から支援を求める人はいます。家族からの支援を求める声によって、支援活動は続いているといっていいでしょう。家族が支援を求め、家族と支援者のつながりによって引きこもり経験者が支援者とつながるのです。
成人引きこもりで自ら支援を求める行動に出るのも小数です。家族の関係で、家族にその可能性を感じられなくて、いわば家族の意に反して動いている人という印象を受けます。
こういう状態のときの当事者の動き方としては、自らを支援者の側に置くことではないでしょうか。
東京都知事選挙が行われています。候補者に向かって「がんばってください」と応援をしています。よく見かける応援のしかたです。考えてみると自分を応援する立場になる人に向かって「がんばってください」と言っているわけです。自らを支援する側に身を置いて、自分が支援を受ける状態をつくるタイプのものです。支援する側と支援を受ける側が反転しています。
ここでは私自身の例を追加するのがいいでしょう。私はいつの間にか「引きこもりの支援者」になっています。本当でしょうか? あえて否定することもないのですが、しかし不十分です。少なくとも私は「引きこもりの経験者から助けられている」からです。支援者は支援の対象者から学び、彼ら彼女らに助けられる状態にあります。この相互作用のない支援というのは私にはウサンクサイ支援です。人の自己成長力や自然回復力を軽く見る支援になると思います。
ここまで考えると自らが引きこもりなどの経験者でありながら文通ボランティアを希望する意味が明確になります。ボランティアに参加することによって自分の課題にチャレンジするのです。これは健全な方法になると思ったのです。
「天は自から助くる人を助く」といいます。いまの例から見て少し言い直したいです。自分の身を助ける側に置くことで自分を助ける道を開くのです。私の実感ともあいます。