以前に『ひきコミ』という文通誌を発行した当時、2チャンネルで「(投稿をしているのは)みんなつぶされたやつらじゃないか」と書かれました。
“つぶされた”という表現の仕方は、単純素朴で乱暴な言い方ですが、確かに重要な点をさしています。いじめを受け、仲間はずれにされた人です。家族内で特異な扱いを受けた人も混じります
繊細な感性をもち周囲の感情の起伏を受けとめやすい人、逆に無頓着で自己流の人などがこの“つぶされた”人たちであり、不登校や引きこもりの経験者も多く含まれます。これらの子ども時代の経験が、心身の成長を停滞させ、自己否定感を心身に強くしみこませています。
子ども時代に強いいじめや虐待を受けた人の困難は、人格の成長が阻止されたためか、ある程度成長した人格が破壊されたために生じているのではないか。言い換えると対人関係が毒素として働いたためです。「みんなつぶされたやつらじゃないか」という単純素朴な表現は人格の成長が“つぶされた”点を表しています。
そのときからずいぶん時間を経ています。その長い期間には同世代の人は成長し、成長の差は子ども時代以上に広がっています。いじめの罪深さはここにも出ます。困難を持つ人はその人なりの社会参加を考えなくてはなりません。
不登校情報センターで私が実際直面するのは、不登校や引きこもりの経験者の自己否定感との波風の立たない闘いです。彼ら彼女らは自分の考え方や動き方などを支持してくれるものがないと動けません。受身になりやすく、失敗が怖く失敗しない最善策は何もしないことにしているかのようです。
彼ら彼女らはそのことを日常的に口にすることはありません。それを口にしていい経験はしていないからです。しかし追い込まれた状態になると、その気分は比較的すぐに表面化します。
「行けるところまで行く」と一見前向きに見える言い方をしますが、「ダメならそこまで…」と言うのとはほとんど同じ意味です。年齢も精神状態も人生の絶壁の淵で背水の陣におかれているのです。それを十分に知りながら、その場そのときを平穏に過ごす術(すべ)を身に着けているだけなのです。
「何もする気はありません」と自己否定感はほぼ共通の状態です。漠然とした不安感と依存、人への不信感とおびえがあります。これらは周囲の人へ向けられた感覚ですが、自分自身の無力さ(自己否定)と結びついています。このような感情状態では意識的な行動は長続きしません。
そういう人は意識して何かができる状態ではありません。生きていること自体が不安定であり、何かにつけてパニック、恐怖になりやすいのではないでしょうか。それは自己存在感の空白、自己否定の深刻な状態です。意識してすることの前に感覚・感情としての自己否定感を薄める体験がいります。彼ら彼女らの繊細さと優しさ、ものを深く考えるよさをどう生かし、伸ばすのか。居場所の役割はそこにあります。
こういう人たちが不登校情報センターという居場所にきます。「不登校情報センターに通っていれば何かできるようになるのですか」と疑心暗鬼の質問をしながら、自問もしています。期待はずれになっても落胆しないためです。
怖れているのは自分を操作されること、得るものがなかったときの時間の損失です。私は操作をしないように心がけています。自然状態に任せることですが、放置しているだけと見られやすいです。時間損失は成功を期すだけで対策はありません。せめて費用負担は少なくすることができる方法です。
私がこのような引きこもり経験者に居場所に来るように呼びかけるのは、心の成長を促進する栄養分は対人関係づくりにあると思うからです。心の成長を阻害したいじめや暴力という毒素も対人関係でした。対人関係が栄養素として働いたことが記憶の表面に出てこないのも特徴です。実際はそういう栄養素として働いた対人関係もあるのですが意識としては弱いのです。その回復です。
「居場所にいて何かの作業をし続けながら、他の人を見ていると自分を理解するようになります。そんな自分でもいいと思えるようになったら、何かに手を出して始めたくなります」。これがめざすことですが、この状態に達するまでには長い時間がかかります。初めのうちは居場所にいるだけでエネルギー消費の激しい大仕事です。ほとんどの人がいるだけで疲れを経験します。
個人差もあります。家に引きこもっている人が居場所に来始めると急に動き始めることもあります。長く通っていてもゆっくりと進むように見える人もいます。私にはこの個人差を事前に見分ける目はまだありません。
マイナスの自己否定感からプラスの自己肯定感に進むことは、人格の形成または完成に向かうことです。子ども時代に停滞状態に置かれた成長エネルギーを再作動させることです。自分を認めそれを肯定的に受け入れ成長すること、それが心を育てることになります。
それは学校の成績がいいか悪いか、運動能力が優れているかどうか、身体に障害があるかどうか、すべて問題ではありません。自分の状態がどうであれ、自分として受け入れられるかどうかの心理的・精神的な成長の問題です。居直りやあきらめの形でそうなる人もいます。それでもいいのです。