引きこもりへの訪問サポートについて思いを書きました(3月25日)。そのなかでアスペルガー気質を「人の気持ちがわからない」のではなく、「人の気持ちがわかるときと、わからないときの両極端になりやすい」としました。私の体験から出る判断です。そして「特に困った状態の人には強い情動が働くように思います」と書きました。この“強い情動”を説明したいと思います。
私は長い間、それが情動であると考えたことはありません。私に向けられたことばはサラッとしているとか、淡々としていて感情に乏しいとか、ときには客観視して公平かもしれないが…(人情に欠ける)などと言われた経験が多いのです。
それらは情動とは反対の状態であり、同情的なものがたりないとされてきたことです。私に限らず、こういうことも人の気持ちがわかりにくいと説明されているのかもしれません。
あるアスペルガー気質の人が小学校から中学校にかけて障害のある同級生をずっと助けてきていたという話を聞いて、私の感覚と何か共通することがあると思うようになりました。中学時代以降の私が公平性を指向する気持ちとして納得してきたことです。
公平のためには弱い人を優遇するのがいいと考えていた時期もあります。それならハンディをもつ子をカバーすることに結び付くからです。しかし公平感覚だけでは説明できないものもあります。それを理解しようとしました。
感情表現を表に出すことは、それに巻き込まれやすい感受性の強い人たちには何か疎ましいのではないか。距離を置きたいとか、いいときと悪いときがあるとか(それは誰に対しても同じようにあるにしても)の感情をあたえるのではないか。私が近くにいて楽であると言われるのは、このような感情表現が少ないことに関係するかもしれません。
弱い立場にいる“被害者”は、その弱さを必ずしも公にはしたくないものです。そのときの“さらし者にされたくない気分”がわかるような気がするのです。だからその場面は早く終えてしまわなくてはいけないのです。感情的な表現でなく無機質なことばで終息させたいのです。
このあたりまでは、遠い記憶でもかすかにあります。それをいまになって振り返ると、“被害者”の状態に即した救済感情かもしれません。多数の人の前で何かを言うことはその弱さを公にします。それよりも別の方法でカバーするのがいいのではないか。そして、これを情動ということばで表わしてもいいのではないか。そのように思えてきたのです。
この表現はかなり近いと思いますが、それでも何か微妙に違います。気持ちをことばにすると自分でもそれは違うと思うものです。それをあえてことばにした感じです。
たぶんわかりにくいでしょう。アスペルガー的な自閉気質のストレートではない感情の機微はだからわかりにくいのかもしれません。ですが何かとらえづらい深層の気持ちをキャッチしているのです。よく読みイメージしてください。わかる人もいるのではないでしょうか。もっと適切な表現ができればいいのですが、このあたりが私の限界かもしれません。