大晦日の紅白歌合戦を途中から聞きました。しばらくして美輪明宏さんのヨイトマケ。
聞きながら、中学・高校時代を思わずにはいられません。事情があり、そのころ私は母と2年下の弟と3人で暮らしていた時代です。家は何か所か変わり、うち一軒は納屋の二階でした。
山陰の大浦という比較的大きな漁港のある漁師町のことです。港を整備する築港作業があり、中堅どころの建設会社の技術者が近くに下宿生活をしながら指揮していました。50歳前後の母はその築港の現場に出ていました。40キロのセメント袋を運ぶのがたいへんといっていました。
夏休みには私も同じ現場でアルバイトをさせてもらいました。田舎のことであり他に仕事はありません。同じセメント袋を運ぼうとするのですが持ち上がらず、引きずるようにして運んだのです。ほかは発破を仕掛けるため岩場に穴を開けるなどの軽い作業をしていました。技術者は数年の間に何人か交代しましたが、そんな仕事ぶりでも大目に見てくれたようです。漁師の奥さん連が現場には多く、けっこう和気あいあいでした。仕事時間は思い出せませんが1日500円のバイト代で、月1万円を超えるときがありました。
母は看護婦でもあり、疲れたといっては自分でアリナミンの注射をしていました。かなり大きな注射器を使い、今でもその姿をときどき思い出します。思い出すもうひとつは夜なべ仕事のミシンのカタカタという音です。若い漁師達が移動してきてこの漁師町に住み込んでおり、その人たちの衣類の修理やリフォームを賃仕事にしていたのです。1件100円とか200円だったと思います。
5人兄弟のうち私は下から2番目です。小さなころから変わり者といわれました。今ではそれがアスペルガー的な気質であるとわかります。当時は何も知りませんし、それにより差別されるとか不自由は感じていませんでした。「超然としたところがある」とアスペルガー状態を説明されたとき、“それだ”と思いました。中学生になってからは1学期に学級委員長にされました。都合よくそういうポジションに置かれやすかったのです。野球部のキャプテン、生徒会長にされたのもそれです。
貧乏生活でしたので、意識としてはそんなことに気は回りません。授業参観日というのはだいたい1学期にありますが、授業の最初の“起立、礼”の声をかけていたので、今年もまた学級委員長かと母に言われたことがあります。学校でのことは話したことはありません。
そんな母ですが、思いのほかのこともありました。高校のとき列車の通学定期が切れているのをごまかして駅事務室に連れて行かれ、母に連絡が行きました。田舎のことであり、すぐにどこそこの子どもであるかはわかるのです。家に帰ってこっぴどく怒られると思ったのですが「お前のことは信用している。悪いことは出来ないはずだ」というようなことを言われただけでした。似たことに新聞配達のときカーブしてきたバスが接近し、倒れた拍子にジャンパーが破れたことがあります。実は肘を強打して痛めたのですが黙っていました。母はけんかか何かを考えたのでしょうか、「何かを隠しているようだ。お前のことは信用しているから」ということで終わりました。他の兄弟と比べて怒られることがなかったのです。母は私の変わっている気質をどこかで感じて“特別支援家庭教育”をしていたと思えるのです。
土方仕事を見聞きするたびにこの貧しかった時代を思い出します。貧しいことは悪いことではありませんが、貧しさに負けることはあるでしょう。子どもにとってはそのとき親が見本です。子どもを守り、真っ当なところで親が揺るがなければ、貧しいままであっても子どもは自分で成長できるのではないか。美輪明宏さんのヨイトマケはそれを示しています。これが貧しさの持つ教育力でしょう。
1982、3年ころ若林繁太さん(当時、長野県の篠ノ井旭高校の校長)から「これからはゆたかな時代の教育と教育方法が必要だ」といわれて30年がたちました。日本人はその課題はまだ達成していないように思えるのです。