引きこもりの「人に会いたくない」理由は、わがままとか差別感とか意図性というものとは別に考えなくてはなりません。人が自然に発する雰囲気、本人さえも意識しない程度の感情表出をキャッチする感覚・感度の鋭さによるからです。少し例を挙げます。
スーパーマーケットのレジの人が私のことを見下していた。
食堂に入ったときウェイトレスは私が来たことをイヤに思っていた。
こういうことを私はいろいろな人から聞きます。多くは自分に対する否定的な言動です。
それを口にすると「考えすぎだよ」、「そんなことは思っていないよ」と言われます。場合によっては「人をそんな気持ちで見ているのですか」と責められる経験もしています。
ですからこれらのことはあまり口にしないでいることが多いはずです。こういう受けとめ方をするから、対人関係がうまくいかないと指摘されます。
第8回の「大人の引きこもりを考える会」を終えて、ここを紹介しましょう。
私は引きこもり経験者のこの感覚を否定しません。相手は確かに意識レベルではそういう否定感覚は持っていないかもしれませんが、引きこもりの人がキャッチする感覚の鋭さはかなりの程度は当たっていると思えるからです。
これは前後2つの方向から説明できます。1つはその人の個体防衛力が低いために周囲の攻撃的な感情をいち早くとらえて防衛体制(ほとんどが回避気分と回避行為)をとります。そのために必要な予防能力です。もう1つは、人の成長とは周囲の攻撃的な感情に耐えられるのに比例して初歩的な防衛機能を忘れさせてしまうのです。この例は年少の子どもに見ることができます。
20代になり30代になっても、こういう状態が続くことは成長の停滞と考えられます。しかし、他方ではその人の感性の鋭さと見ることもできます。この状態を「神経質」と言われると否定的に感じを受けます。「繊細な感性」とか「感覚が鋭い」といわれるとニュートラルな表現になります。
私はこのような対人関係づくりにつながり、対人関係づくりに先行する事情を引きこもり経験者からいろいろな機会に聞いてきたわけです。それを親たちに話したところ「それは松田さんを信頼しているから話すんじゃないですか」という方がいました。
確かに私はこれまで引きこもり経験者が自分のことをどこまで話すのかは、話す相手との信頼関係に比例する、と言ってきました。その意味ではこの親の意見は当たっている面はあります。ですが今回はちょっと違う、少なくとも違う面もあると思ったのです。
引きこもりの経験者は相手を信頼する・信頼できないと自分で意識する以前に、すでに何かを感じているのです。ここを考える機会になりました。
私がカッコ付き支援者として引きこもり経験者に会います。そしてフリースペースという場で彼ら彼女らから状況を聞きます。あるお母さんから「親の私に話さないでなぜ松田さんに話すのですか(話せるのですか)」と聞かれたことがあります。お母さんは子どもと私の間に信頼関係ができる前の初対面でなぜ話せるのかを聞いたのです。
誤解しないで欲しいのですが、私は引きこもり経験者なら誰とでも話せるといっているのではありません。他の人には話せないけれども、私には話せる人が少しはいるのです。
私を知る人には説明不要かもしれませんが、私は特別に優しいとか、懇切丁寧な人間ではありません。そんな柄の人間ではありません。むしろブッキラボウであり、デキない、イヤだ、ということを躊躇なく言ってしまう人間なのです。丁寧な物言いを事とする引きこもりの人とは必ずしも一致しないと思うほどです。
自分のことはわからないものです。それが引きこもり経験者とはいきなり接触でき話しこむことがあるのですから、なぜかの説明が難しいのです。この日の教室でその点を考えているうちに「子どもは楽(らく)」といっている人がいるのを思い出しました。
小学校低学年以下の子どもとは楽に遊んだり接触したりできるという経験です。小さな子どもは好き嫌いをはっきり表します。気を遣ってイヤなのに「いいです」という芸当はしません。子どもが表したものをそのまま受け取ればいいのです。引きこもり経験者が「子どもは楽」というのはそこに関係するのではないかと思い至りました。そして私は態度の粗雑さにもかかわらず、言葉の表現通りに受けとめればいいという点では子どもと共通しそうです。
ただし初対面からそこまで私のことがわかるはずはありません。もっと違ったことがあると思います。教室が終わった後でそんなことを考えていたら「無造作(むぞうさ)」という言葉が浮かんできました。子どもの行為は無造作かもしれません。私の言行も無造作かもしれません。私は初対面でも無造作に対応しているのではないでしょうか。それが感度のいい引きこもり経験者に何らかの形で伝わることがある。そう考えればようやくおおよその結論にたどり着いたように思ったのです。無造作で全てを言い尽くしてはいないまでも、キイワードでしょう。
もう少し先を述べましょう。引きこもり経験者が言うことは原則として信用できます。このスタンスと根拠です。これには3つのレベルがあります。
①感覚は間違いません。五感(視聴嗅味覚、温寒接触などの皮膚感覚、平衡感覚)がおかしいのは感覚器官の障害によります。その範囲の人の多くは本人に自覚があります。
②感情・喜怒哀楽も間違いません。怒っているのに笑うのは精神障害の領域ですが、その場合はその人の言行の他の面からわかります。
③意識は間違うことがあります。理論、理解、解釈、意欲などがこ意識領域に入ります。何かを誤解して怒るのは、誤解していること(意識の範囲)が間違いであって、怒っていることに間違いはありません。
これらを言い換えるならば、繊細な感性で周囲の人の怒りの感情を捉えても、それを否定することはできません。ただ相手がそれを意識していないこともあるし、相手が怒りを意識していてもそれに対抗しなくてもいいだけです。とらえた感情が「思い込みや間違い」とする理由はありません。支援者や周囲の人にはそういう繊細な感度がないだけのことです。
間違っている可能性があるのは通常は意識・理解のところです。引きこもり経験者で意識や理解のしかたで間違いやすいのは、一面の事実を全体の事実に広げやすいこと、自分が確信したことを誰もが確信すべきことと考えやすいことではないかと思います。このあたりは私にはまだ証拠不十分です。
感覚・感情に関することはおおよそ信じていいのです。意識のことは全面否定ではなくそれが通用する範囲がわかればいいと思います。これが引きこもり経験者が言うことは原則として信用できるという意味です。それも教え諭すよりも気づいていく方法が取れればいいのですが、いつもそう都合よくはいきません。ですがそういうスタンスで引きこもり経験者の言い分を聞いていくことです。