無神論者のお墓参りから

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お彼岸でもなく命日でもないのに、地方にある墓に行ってきました。宗教を持たない私がお墓参りをする意味というか必然性があるのかと問われれば、宗教とお墓参りをセットにする必然性はない、と答えましょう。無神論者とお墓参りは両立します。
「宗教とは、死ならびに死後の説明者である。…どのような宗教であっても、死に関する問題の説明を取り除いた場合、何が残るというのであろうか。意外にもほとんど倫理道徳だけである。宗教から倫理道徳を除いた場合、何が残るであろうか。死―死に関する問題が残るのみである」(加治伸行『儒教とは何か』による)。これを取り入れて説明するならば宗教とお墓はセットにしなくてもいいことになります。便宜上、または展開上2つを組み合わせたものもあるだけと考えればいいのです。いや、神道ではお墓はもともとセットではないのではないですか。

それはおくとして、お墓参りは特別の行動になっています。なぜならお墓のある場所が遠いからです。東京近辺に住む人で歩いていけるところにお墓参りのできる人はどれくらいいるのでしょうか。よくわかりませんが5割はないでしょう。過去数十年間の国民の移動により住居地と家族の墓地は切り離されてきました。

情報センターには亡くなった2人の写真がおいてあります。先日はその一人の命日であり、お花が添えられています。お墓参りに代わるわけではありませんが、いつかこうなってしまいました。お墓がどこにあるかわからない、遠くのお墓参りはできない、そういうときはこれでいいのではないでしょうか。
私の場合を考えてみました。死んだ後に墓はいりません。作ろうとするならば「やめておきなはれ!」と言いたいです。遺骨や遺影という方法があります。情報センター内の写真はそれに相当するのかもしれませんが黒枠で囲っていません。亡くなった人との関係によりますから、一般にそれをなくせとか、悪しき習俗というつもりはありません。

死者を弔うのは、動物の中でも人間ぐらいなものです(象や子どもを亡くした哺乳類に死体を悲しむ表情があると聞きました)。死者を弔うのは人類の証明といえるでしょう。それは人にとっての自然な感情です。
数人で話したところ、「何も遺してほしくない。完全消去がいい」という意見がでました。私の場合も完全消去がいいように思いました。ここで思ったことは死者の弔いは遺された人のためにあるという意味です。死者は何もしないし、できないのです。情報センターにある写真はそのようなものです。
たぶんズーッと置かれていくのではないでしょうか。お墓ではないけれども、これはこれでいいと思います。

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