「状態は認めるけれども、なるべく価値判断をしない」というスタンスをいつごろから取り始めたのかは自分でもよくわかりません。
不登校の「状態は認める」、しかしそれをいいとか悪いとか「価値判断をしない」という意味です。
“いいとか悪いとか”といいますが、この場合、“悪いとか”の判断をしないことに重点があります。
「引きこもり」や「発達障害」も同様です。
それは、「私が日本人である」というのは認めるけれども、いい悪いは判断しないのと同じです。
「神経質」もまた同じです。なぜなら「細かいことに気がつく」のが、どのようなときでも“いい”とか“悪い”にならないからです。有効なときもあるし、不都合なときもあるのです。どう表われるのかはTPO(時、場所、機会)によります。価値判断はTPOによります。
しかし全部がそうはなりません。「お腹が痛い」、「眠れない」というのは、TPOに関わらず身体条件としては悪いとしなくてはなりません。「状態は認めるけれども、なるべく価値判断をしない」というわけにはいきません。そこで“なるべく”というのがつくわけです。
もうひとつの課題があります。一般的に価値判断しないためには、TPOによっては有効である実例、可能性を示さなくてはなりません。不都合な実例はあるが、有効な実例がないと、この方式は成り立ちません。
「不登校」の、「引きこもり」の、「発達障害」の、有効な面を研究しなくてはなりません。それらは私なりに提示してきたつもりです。わかりづらいことは認めますが確かにあります。
こうしてこそ「状態は認めるけれども、なるべく価値判断をしない」の全体は成立します。
10日の「大人の引きこもりを考える教室」(第2回)のときです。
引きこもりの子どもを「受けとめる、認める、信じる」をめぐって意見交換しました。受けとめる、なかなか受けとめられないという意見が出ました。もっとわかりやすい実例はあるはずですが、私は一般に通用する方式にしようとした経緯を話しました。その結論がこれです。