『ひきこもりー当事者と家族の出口』の書評

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関西大学生活協同組合『書評』編集委員会の『書評~春の海 わたる~』(第137号、2012年・春)が手元にあります。私の『ひきこもりー当事者とその家族の出口』の書評が載せられており、版元の子どもの未来社を通して送られてきたのです。
書評をしたのは社会学部4年次生、坂田朋美さんといいます。
ありがたく読ませていただきました。

ひきこもりは誰の責任か〔私流新書の楽しみ〕
知り合いにひきこもりの人がいる。その人はもともと小学校の頃から学校を休みがちであったが、高校に入学してから不登校になり結局学校をやめてしまった。その後も通信制の高校に通っていたこともあったようだが、長くは続かなかった。
私はただでさえ就職難のこの時代で、そのように高校も卒業せずひきこもりになってしまった彼は、これからいったいどのようにして社会復帰していくのだろうかと不安に思っていた。そしてこの本と出会った。
引きこもりの理由は様々であるが、大きく三つに分けられる。まず、自己否定感が強く植え付けられ、それに苦しみ無意識のうちに自分を取り戻そうとしてひきこもった人たち。二つ目に周囲にさまざまなことを決められ、受け身になり自己表現の方法が身に着かず、無意識のうちに周囲から独立したところで自分のペースをつかむために引きこもった人たち。三つ目は幼少期から少年期にかけて虐待や強烈ないじめを受け手、精神的に不安定な状態や対人恐怖などになってひきこもった人たちである。
かの知り合いは、まさにこの本に書かれている二つ目のタイプに当てはまる。過剰ともいえる過保護の下に置かれたためによるひきこもりなのだ。
親が良かれと思ってしている躾でも、それが押し付けになり子どもを追い詰め、ひきこもりに導いてしまうことがある。親が愛情と思ってしていることが、虐待にも近いもの(筆者の言う「虐待の周縁にある躾」)になってしまうケースもある。
監視されているも同然だった女性がそこから抜け出すために、あってすぐの男性に結婚してくださいと言ったという、そんな事例も紹介されている。
それにしても、そこまで子どもを追い込んでしまっていたことに、どうして親は気づくことができなかったのだろうか…。
ひきこもりはその本人だけの責任ではない、ということ。ひきこもりになってしまう人は、ただ単に自分に甘くてそうなったわけではない、ということ。しかし本人たちは私たちが思っているより多くのことを考え、どうにかして抜け出そうともがいているということ。こうした事実の認識が、まずは必要なのだ。
なのに、あいかわらず、ひきこもりに世間の目は厳しい。ひきこもりの人はどうして働かないのだと社会から責められる。ひきこもりなどの少数派は社会の中では異質な存在と見られてしまうのだ。
一方、当事者たちも自分がひきこもり、社会から逸脱していることに負い目を感じている場合も多い。社会復帰したいと思っても周りの目を気にして、なかなか踏み出すことができない。
ひきこもりから立ち直るためにはやはり人と関わり、対人関係を築いていくことが大切である。社会で生きていく上で必要である社会性を身につけるためには実物、実在からしか学ぶことはできない。
確かにひきこもりから脱するまず始めの一歩として、人と交流するということはとても大切である。しかしそれを周りから行なってしまうと善意の押しつけでしかなくなる。そうではなくて、当事者たちのどうにかして社会復帰したいという気持ちを大切にして、当事者からの第一歩を待つことが周りの人たちには求められている。
ひきこもりの当事者はもちろん、その家族たちも非難されることのない社会であってほしい。なるほど日本の雇用システムの改善なども必要であるが、それ以前に「ひきこもり」という実態、事態を受け入れられる社会を、私たち自身が作っていくことが必要なのだ。そんなことを強く感じさせる本であった。

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