3月12日の「日の丸、天皇、神社、そして閾値」にコメントが書かれました。
そのコメントの由来と内容は同ブログのコメント欄に転載しています。
以下はこのコメントへの私のコメントです。
岡田さんとの意見の相違の中心は国歌・国旗に関することのように見えます。
実はよく読んでいただきたいのですが、「国歌・国旗」というよりは君が代、日の丸への私自身の賛成・反対は表明していません。
私は、日の丸や君が代の法制化や強制について書き、法制化や強制に反対を表明しました。
事柄が思想信条に関係しているときは、私の好き嫌い、賛成・反対とは別に考えなくてはなりません。
キリスト教がいいという人を私は非難しませんが、私がキリスト教徒になるのとは違います。
キリスト教徒になることも、キリスト教徒にならないことも両方が認められなくてはなりません。
私の好き嫌いに関係なく、それぞれの人の思想信条は尊重されなくてはなりません。
それが思想信条の自由です。
言い換えますと、法律で▽教徒にならなくてはならないとか、強制的に△信徒を退会させられるのには反対です。
日の丸、君が代がデザインや音曲の問題ではないというのは、思想信条の範囲になっているからです。
ですから私はそれを法制化し、強制するのに反対なのです。
個人として日の丸、君が代を好きで選ぶのもまた思想信条の自由に属することです。
個人として日の丸、君が代が嫌いであるというのも思想信条の自由になることです。
思想信条が具体的な行動として、暴力や略奪になればそれは非難されるし、組織的にそのような行為を企てる団体は禁止されます。
暴力団やオーム真理教はそのようなものでしょう。
日の丸、君が代を法制化したからそれに反対する行動は犯罪行為として処罰するのは思想信条を法により束縛する事態です。
それは近代的な民主主義国家としておかしいと思います。
ですから私はそれを行きすぎと考えます。
国家法で規定しないものを自治体の条例で細かく決める動きが顕著です。
学校行事に教職員が起立して君が代を歌わないのは条例違反というのは行き過ぎの上塗りです。
それを指摘したつもりです。
国歌・国旗に何がいいのかは、それらがデザインや音曲として考えられるものでなくてはなりません。
将来、その対象として君が代、日の丸が候補に挙がるかもしれません。
それは君が代や日の丸がそれにふさわしい振る舞いをつづけ思想信条の問題が薄れ、もはや侵略戦争と結びつくイメージが消失したときに浮上することです。