発達障害の診断で何かがわかったつもりになること

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11月19日の第3土曜日はセシオネット親の会の定例会です。
参加者はやや少ないですが、かなりの内容があります。
私に最近の相談の様子を話すように言われました。話したのはごく短いコメントでした。
ここでは話さなかった点を少し詳しく書いてみます。

相談に来る子どもが広汎性発達障害、アスペルガー障害…というような診断を受け、判断されている人が多くなっています。それによって何かわかった感じになり、子どもの具体的な様子、親として、教員として、友達関係においてどんなことが楽しい、苦しい、熱中している、退屈している…そんなことがあまり問われなくなっています。
子どもを診断名で判断し、わかったような気になる。そして後はお医者さんにお任せにする。ところが多くのお医者さんでは薬をどうするかしか対処できない。そこには改善の展望はみえないのです。

人は障害者に生まれるのではなく、障害者になるのです。そういいたいです。このようなレッテル貼りの診断は、アスペルガー気質の先天的な気質の人をアスペルガー障害に追い込んでしまいます。いやすでにそういう障害者にされた人は多数います。障害者とは他の人の手助けを多く必要とする人だからです。
人は誰もが未熟な未完成な形で生まれてきます。動物の中で人間ほど未完成で生まれてくるものはいません。いわば障害をもって生まれてくるのです。そういう出発でありながら、人間は動物の中でもっとも高度の発達をします。それは後天的な成長の過程にゆだねられています。
その後天的な成長の過程と必要な要素を言い尽くすことはなかなかできません。ある尊敬するお医者さんはこういいました。基本的に必要なものは、太陽(光と熱)、空気、水、栄養そして人間です。
あるいは日常的には睡眠、食事、運動、家族と友達、学習ということもできます。

発達障害やアスペルガー気質であっても後天的に必要なものは基本的には同じです。これらがバランスよく子どもの環境にあれば障害レベルにはならないと思います。少なくとも重大な身体的欠損がなければ多くの子どもたちは障害者にはなりません。かなりの身体的欠損があっても自動的に障害者になるのではありません。さらに障害者であっても社会の一員として生活できる状態を獲得することは可能です。

その視点というか展望を持たずに、「発達障害は、ハイ、まずはお医者さんで診断を受けて…」というのはどういうことでしょうか。責任逃れ、リスクを負わない、楽なことを選ぶ人格的な卑劣さを感じてしまいます。
私はこういう言い方が好きではないのですが、一度は考えていただきたいと思います。そういう子どもを一度に多く抱えることはできません。正直なところ私自身もそれを問われ、求められると困ります。そんなときは私も逃れたくなります。
ですから発達障害だ、低学力だ、問題行動だ…という子どもに次つぎに対処しなくてはならない人の様子を想像してみるのです。そのときの対応者の苦痛・苦しみを汲み取ろうとしてみるのです。ですがそういうものが感じられない職業的な対応者を見たり聞くことがふえていると思えます。
私はこのような状況こそが、社会の疲弊、行き詰まりなのではないかと思います。子どものところにこれらは極端に現われやすいからです。

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