自己否定感がなかなかの難問です。とくに一般的には優れているはずのことが、自己否定感の原因、発生源になっていることは残念というしかありません。
不登校、引きこもりになる人には周囲の人への感じ方がとても鋭敏な人がいます。わずかな動き、かすかな表情からその人が何を感じ、何を言葉で表現しないままいるのかを察知しています。言葉で表現しないままのその人の気持ちを尊重する(尊重するというのが大げさだとしても、少なくとも邪魔はしないでおく)方向に自分の言動を向けようとします。
普通には対人関係や社会生活において、このようなものは求められません。そういうことはわかっているはずですが、その瞬間においては意識に浮かんできませんから、自然にそういう振る舞いになります。
他の人にはなかなかわかってもらえないようですが、不登校や引きこもりを経験する多くの人が自分の問題や経験を深く思い出しながら話していくと出てくる経験談です。
この最大の特徴は、その人にはそのような周囲の人の、もしかしたら当人さえも意識していない気持ちを察知してしまうきわめて高度の感受性、繊細さがあることです。ところがこれを“神経質”といわれてしまうと急に色あせ、貧相なものに置き換えられてしまいます。せっかくの優れた点が自分の弱点になり、自己否定感の一つの発生源になります。当事者はこの世界におかれるのです。
自己否定感の理由になるのは、周囲の人から“神経質”とか“細かすぎる”とか言われるばかりではありません。本人が日常生活をするときの障害になることもあるからです。やることなすことのいろんな問題に時間がかかります。「どうでもいい」と自分でも感じているレベルの問題にとらわれて優先すべきことを後回しにしてしまうことがあります。
これが周囲の人との関係のなかで生まれ、社会生活において繰り返されると「自分で自分の言動に困ってしまう」意味での自己否定に入っていきます。これらにまつわる多くの物語はここでは省略します。どうするのかを少し続けましょう。
この気質、性格は基本的には天性のものであり、直す治療対象にはなりません。一生継続するものです。こう聞くと気落ちする人がいるかもしれませんが、この点を知ることは大事です。
むしろこのような“神経質”、繊細性を生かすことです。そのためには自分の繊細性がどのようなものか、どんな場面でどう現れるのか…を自分でわかっていくことです。家族との関係において、友人との関係において、教師との関係において、いろいろ振り返ってみることです。それが自分の繊細性を理解し、生かしていく条件になります。できれば友人の中に入り失敗するつもりで試してみることです。そして経験したことを自己学習するのです。それは自分を理解していくレベルだけではなく人間としての成長過程そのものになります。
これを継続していけば“神経質”の自己否定感は、“自分を生かす”自己肯定感に変わっていきます。自己否定感を“変える”のではありません。成長していけば自己肯定感に“変わる”のです。無理やりに変えたものは元に戻りますが、自然に成長したものは自分の一部として定着し、身につきます。