絶望のなかで何もしない意味を問う

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V.E.フランクル『夜と霧ードイツ強制収容所の体験記録』(霜山徳爾・訳、みすず書房)を読んでいます。
アウシュビッツなどナチスの収容所を体験した精神科医の有名な著作(1947年)です。
3月6日にある新聞の書評欄にあるのを読み、事務所の本棚に並んでいたのでその翌日から読み直したのです。
『ひきコミ』3月号「現実肯定による社会参加に向かう」を書いたとき、一般的な課題として答えたいかなり難しいテーマがありました。
こう書いたところです。
「私はその「本当に何にもしていない状態」にも、意味があると思っています。しかし、その意味をどこまで了解できるレベルで説明できるのか、必ずしも自信はありません。これが第3の問題です。」
引きこもり生活で、ゲームもしていない、テレビもネットの見ていないなど「本当に何もしていない」人にどんの意味があるのかを考えたのです。
フランクルは絶望的な強制労働と生きるだけの収容所生活の中で「生命の意味についての問いの観点変更」(183P)が必要であるとしたのです。
人生の「一回性と唯一性」の特徴から、「われわれにとって苦悩も一つの課題」であり「苦悩もわれわれの業績であるという性質」(185P)を持つとしたのです。
それが持てない人には自己崩壊のなかで犠牲になる人を見ています。……もっと丁寧に読み取り説明すべきでしょうが、ここではこの程度の紹介にします。
何もしないで引きこもっている状態のなかに、その経過や表われ方の特色のなかにも意味がある。
いま現在は特に苦悩が見えないとしても、無感動の時期や感情的な抵抗を示している時期など、その人なりの独自の経過のなかに意味が出てきます。
それを読み取る課題がでてきます。
フランクルはそのあと「もはや人生から何ものも期待できない」と言っていた囚人仲間のうち、1人は子どもが「待っていた」し、別の1人は仕事が「待っていた」。
「個々の人間を特徴づけ個々の存在に意味を与える唯一性や独自性は創造的な仕事に対してあてはまるばかりでなく、また他の人間とその愛に対してもあてはまるのである」(186P)と本人の外側の条件が意味をもたらすと述べています。

ナチス強制収容所の経験を引きこもりの経験の参考にするのは無理がある、という意見が出るかもしれません。
それは考慮すべきことですが人間の経験の類似性や引きこもり自体の苦悩に(何もしていないなかの苦悩にも)目を向けるべきだと思います。
そのうえで相対化して評価をしたいです。

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